志摩国の成り立ちを解説|律令制における伊勢国との違いとは
はじめに
三重県の伊勢志摩地域を訪れると、「伊勢」と「志摩」という2つの地名が並んで使われていることに気づきます。
現在では同じ三重県内の隣接エリアですが、かつてこの2つは別々の「国」として扱われていました。
なぜ志摩は伊勢から分かれて、独自の国になったのでしょうか。
この記事では、律令制(りつりょうせい)という古代日本の行政の仕組みを軸に、志摩国が成立した背景と、伊勢国との違いをわかりやすく整理します。
歴史が苦手な方でも読み進められるよう、専門用語には都度説明を添えています。
志摩国とは何か|令制国の基本を知る

令制国の仕組みをやさしく解説
「令制国(りょうせいこく)」とは、飛鳥時代から明治維新まで使われていた日本の地方行政区分のことです。
現在の都道府県のようなものだと考えるとイメージしやすいでしょう。
律令制とは、中国の制度を手本にして7世紀ごろに整えられた、法律にもとづく国の統治システムのことです。
この制度のもとで、日本全国は60あまりの「国」に分けられ、それぞれに役所(国衙/こくが)や責任者(国司/こくし)が置かれました。
志摩国(しまのくに)は、この令制国の一つで、東海道に属し、現在の三重県鳥羽市と志摩市の大部分にあたる地域でした。
志摩国の位置と範囲
志摩国は、現在の鳥羽市と志摩市の全域、そして伊勢市や度会郡南伊勢町の一部を含む地域で構成されていました。
日本全国にある令制国の中でも、もっとも面積が小さな国として知られています。
周囲を海に囲まれた半島や島々からなるコンパクトな国でありながら、古代から独自の存在感を放っていました。
志摩国はどのようにして生まれたのか|伊勢国からの分立の歴史

律令制以前は「島津国造」の支配地だった
律令制が整う前の日本では、地域ごとに「国造(くにのみやつこ)」と呼ばれる豪族が土地を治めていました。
志摩の地域は、成務天皇の時代に設置されたとされる「島津国造(しまつのくにのみやつこ)」の支配地だったと伝えられています。
伊勢国の一部から独立した時期
律令制が整えられる過程で、志摩を含む地域はいったん伊勢国として一つにまとめられました。
その後、7世紀後半から8世紀初め頃にかけて、志摩の地域は伊勢国から分かれ、志摩国として独立します。
ただし正確な分立の年は史料でもはっきりしておらず、8世紀初めまでは「嶋国」「志麻国」といった別の表記も使われていました。
小さな国ではありましたが、制度上は伊勢国から独立した一つの国として行政運営が行われていました。
なぜ志摩国は伊勢国と分けられたのか|御食国としての特別な役割

稲作に向かない土地という弱点と「便補国」
志摩国が独立した国として扱われた背景には、地理的な特殊事情がありました。
志摩国は面積が小さいうえに平地がほとんどなく、稲作にはあまり向かない土地でした。
そのため、律令制のもとで国衙(役所)の運営や国分寺を維持するための財源を、志摩国内の税収だけでまかなうことができませんでした。
そこで朝廷は、志摩国を「便補国(べんぽこく)」に指定します。これは、財政基盤の弱い国を支えるため、近隣の伊勢国、尾張国、三河国などの公田から上がる財源を、志摩国の運営費用として回す仕組みでした。
財政面では他国に依存しつつも、行政上は一つの国として独立を維持していたのです。
海産物を朝廷に納める「御食国」の使命
米があまり取れない一方で、志摩国は海の幸に極めて恵まれていました。
朝廷への献上品を「贄(にえ)」と呼びますが、志摩国は海産物を贄として朝廷に納める「御食国(みけつくに)」として、極めて重要な役割を担っていたと考えられています。
御食国とは、皇室の食事に関わる特産品を納めることを役割とした国のことです。
この「天皇や朝廷の食を支える」という極めて重要な宗教的・政治的任務があったからこそ、農業生産力が乏しいにもかかわらず、志摩は独立した一つの国として扱われ続けたのです。
国司(国の長官)についても、朝廷の食事を司る「内膳司(ないぜんし)」を代々務めていた高橋氏が任命されるなど、御食国ならではの深い結びつきが見られます。
志摩国と伊勢国の違いを比較する|統治・経済・信仰の視点から

統治のしくみの違い
伊勢国は志摩国よりもはるかに広く、律令制における国の格付けでも上位(大国)に位置づけられていました。
一方、志摩国は「延喜式(えんぎしき)」という平安時代の法律書のなかで、最も小規模な「下国(げこく)」に分類されていました。
当初は答志郡(とうしぐん)のみで構成されていましたが、719年(養老3年)に南側の地域が佐芸郡(さきぐん)として分けられ、のちに英虞郡(あごぐん)と改称されています(2郡制)。
国府(政治の中心地)は、現在の志摩市阿児町国府周辺に置かれていたと考えられています。
経済基盤の違い
伊勢国は平野が広く、稲作を中心とした農業国としての性格が強い地域でした。
対して志摩国は、前述のとおり稲作よりも漁業と海産物の献上を経済・行政の基盤としていた点が大きな違いです。
この違いは、現在の伊勢志摩地域における「伊勢=農産物・門前町」「志摩=漁業・海の恵み」というイメージの原点にもなっています。
信仰面でのつながりと違い

志摩国の一宮(その国で最も格式の高い神社)には、伊勢神宮内宮の別宮である伊雑宮(いざわのみや or いぞうぐう)、または鳥羽市の伊射波神社(いざわじんじゃ)が比定されています。
特に伊雑宮は神宮の別宮という非常に高い格付けを持っており、行政上は別の国でありながら、信仰や神事の面では伊勢神宮と一体不可分の関係にありました。
このように志摩国は、統治のうえでは伊勢国から独立しつつも、財政面では周辺国に支えられ、信仰面では伊勢神宮と強く結びついているという、ユニークな立ち位置の国でした。
志摩国のその後の歩み|中世から明治維新まで

志摩国および伊勢志摩地域における、中世(鎌倉時代)から近現代(明治維新・三重県誕生)までの歴史の流れを時系列で表形式にまとめました。
主要な出来事と、それぞれの時代における志摩国の状況を一目で把握できます。
志摩国の中世〜明治維新・統合への年表
| 時代 | 区分・西暦 | 志摩国・伊勢志摩地域の主な出来事 | 歴史的背景と志摩国の状況 |
| 中世 | 鎌倉時代 (1310年代頃〜) | 金沢(北条)氏が志摩国守護に任じられる。 | 守護所(拠点)は答志郡の泊浦(現・鳥羽市)などに置かれたとされる。 |
| 室町時代 (1336年〜) | 北畠氏が伊勢国司として勢力を拡大。志摩国と伊勢国の守護を同じ人物が兼任する時期も現れる。 | 地元の小規模な豪族たち(志摩十三地頭)が割拠し、合戦を繰り返す。 | |
| 近世 | 戦国時代 (1570年代頃) | **九鬼嘉隆(くき よしたか)**が志摩の地頭たちを平定し、志摩国を統一。織田信長や豊臣秀吉に仕え「九鬼水軍」として活躍。 | 1594年には鳥羽城を築城。志摩国は海上勢力の重要な拠点となる。 |
| 江戸時代 (1600年) | 関ヶ原の戦いを経て、九鬼氏は家督争いにより志摩から転封(紀伊国や摂津国へ)。 | 九鬼氏に代わり、内藤氏、土井氏、大給松平氏、板倉氏、戸田氏などが次々と鳥羽藩主となる。 | |
| 江戸時代 (1725年) | **稲垣昭賢(いながき てるかた)**が鳥羽藩主として入封。 | 以降、明治維新まで代々稲垣氏が志摩国全域と伊勢国の一部(計約3万石)を治める。 | |
| 近現代 | 明治時代 (1871年) | 廃藩置県により鳥羽藩が廃止され、**「鳥羽県」**が誕生。 | 同年中に鳥羽県は廃止され、伊勢・志摩・紀伊の一部を管轄する**「度会県(わたらいけん)」**に統合。 |
| 明治時代 (1876年) | 度会県が安濃津県(旧三重県)と合併し、現在の「三重県」が成立。 | 行政区分としての「志摩国」はその役割を終え、現在の三重県の一部となる。 |
鎌倉・室町時代の志摩国
鎌倉時代末には金沢氏が志摩国の守護(軍事・行政を担う役職)に任じられ、室町時代には志摩国と伊勢国の守護を同じ人物が兼任する時期もありました。
守護所(守護の拠点)は答志郡の泊浦(現在の鳥羽市)などに置かれていたとされています。
九鬼氏と鳥羽藩の時代
戦国時代になると、志摩の地では九鬼氏が水軍を率いて台頭します。
九鬼嘉隆は織田信長や豊臣秀吉に仕えて頭角を現し、鳥羽城を築いてこの地域の海上勢力の中心となりました。
江戸時代に入ると、志摩国の全域と伊勢国の一部を合わせた領域が鳥羽藩の支配下となり、藩主家は時代を通じて何度か交代しながら明治を迎えました。
廃藩置県と三重県への統合
明治維新後の1871年、廃藩置県によって志摩国は一度「鳥羽県」となります。
その後まもなく度会県(わたらいけん)に統合され、1876年(明治9年)に現在の三重県が成立したことで、志摩国という単位は行政上の役割を終えました。
よくある質問(Q&A)
Q1.志摩国と伊勢国は、もともと同じ国だったのですか。
はい。律令制が整う過程で、志摩の地域は一度伊勢国としてまとめられました。その後、7世紀後半から8世紀初め頃に独立した「志摩国」として分立しています。
Q2.なぜ志摩だけ別の国として扱われたのですか。
志摩国は稲作に向かない土地でありながら、アワビやサザエなどの豊かな海産物を朝廷や神に納める「御食国」としての極めて重要な役割を担っていたためです。その特殊な存在意義から、日本最小の国として独立を認められていました。
Q3.志摩国の一宮はどこですか。
志摩国の一宮には、伊勢神宮内宮の別宮である「伊雑宮(志摩市)」とする説と、「伊射波神社(鳥羽市)」とする説の2つがあり、古代から信仰を集めてきました。どちらの神社も伊勢神宮や海の信仰と深く結びついています。
Q4.志摩国はいつまで存在していたのですか。
行政区分としての志摩国は、1871年(明治4年)の廃藩置県まで存在しました。その後、鳥羽県、度会県を経て、1876年に三重県へ統合されました。
まとめ
志摩国の成り立ちを振り返ると、次のポイントが重要です。
- 志摩国はもともと伊勢国の一部で、7世紀後半から8世紀初め頃に分立して誕生した
- 面積は日本最小で稲作に向かない土地条件だったが、海産物を朝廷に納める御食国としての重要な役割があった
- 財政を周辺国に補ってもらう「便補国」でありながら、行政上は独立した一つの国だった
- 一宮の伊雑宮などに代表されるよう、信仰面では伊勢神宮と深く結びついていた
- 戦国時代には九鬼水軍が台頭し、江戸時代は全域が鳥羽藩の支配下となった
- 1871年の廃藩置県を経て、1876年に三重県へ統合され、志摩国という単位は役割を終えた
伊勢と志摩は、地図の上では隣り合う地域ですが、成り立ちをたどると「農業と大国の伊勢」「漁業と海の恵みの志摩」という、それぞれ異なる歴史的な役割を担ってきたことが見えてきます。
現在の伊勢志摩観光でも、伊勢神宮での参拝と、志摩エリアでの海産物や海女文化を楽しむという組み合わせが定番になっていますが、これは古代から続く両地域の性格の違いが、今も色濃く残っている証といえるでしょう。
参考文献
- 志摩国 – Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/志摩国)
- 伊勢国 – Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/伊勢国)
- 志摩国(シマノクニ)とは? 意味や使い方 – コトバンク(https://kotobank.jp/word/志摩国-75161)
- 便補国 – コトバンク(https://kotobank.jp/word/便補国-1383391)
- 志摩国の一宮 – 全国一の宮会(http://www.ichinomiya-kai.jp/)
著者紹介:小﨑 拳太郎
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